2017年の夏。私は走っていた。そして焦っていた。昼過ぎの有楽町。オープンテラスのレストランでランチをしているカップルたちを横目で見ながら、汗だくの私は必死でそこに向かっていた。
その日は黙って立っているだけでも汗が拭きだし、熱気で息苦しくなるくらいの猛暑であった。。
しかし私にはやることがあった。そのために都内に来た。
ハンガリーへの送金である。
留学のために日本から契約するアパートのデポジットを大家さんに、1年分の学費を学校に送金する必要があった。特に部屋のデポジットはその日のうちに送らないと間に合わないくらいに切羽詰まっていた。
こんなに差し迫ってしまったのはギリギリまで悩んだからであった。その部屋は首都ブダペスト中心部にあるオペラ座の真裏という最高の立地だが家賃は高め。留学先の学校に頼めばもう少し安い部屋を紹介してくれそうだったが、結局オペラ座の魅力には勝てなかった。
生まれて初めての海外送金、しかもアメリカやイギリスではなくハンガリーである。無事に届くのか不安しかなかった私はとりあえず窓口に行けばなんとかしてくれるだろうと考え、八丁堀にある銀行を訪れた。そこはメガバンクの一つで、勤めていた会社の指定銀行であった。
「ハンガリーの大家さんと学校にそれぞれ送金したい」
窓口の行員に申し出ると、彼女の眉毛がへの字をひっくり返した形になったような気がした。
こちらへどうぞ、と案内されたのは同じフロアにある無人の個室であった。聴力検査用のブースを2倍にしたような大きさで、正面には埋め込まれたモニター、ボタン類、受話器、左脇の台にスキャナーがあったのを覚えている。それらに囲まれるように椅子が置いてある。ロボットアニメの操縦席のようだと思った。
驚いたことに、ここで自分で送金操作せよと言う。人が相手してくれないのかーい。繰り返すが2017年の夏であり、新型コロナもまだない頃である。
受話器を取ると、声がする。あの書類をスキャンしてください、この番号を入力してくださいなどといろいろ指示され、言われるがままに操作をする。私はいったいどこの誰と話をしているんだろう。
1時間半ほどあれこれ操作した後、受話器の向こうの誰かは言った。
「できません」
なぜだ。
理由は説明されたかもしれないが理解できるものではなかった。今でもわからない。なぜできないのだ。ハンガリーがマイナーすぎてダメなのか? 2カ所に振込先が分かれているせいか? 金額の問題か? 色々なことが頭の中を駆け抜けた。ここはメガバンクの一つである。ハンガリーよりもっとへき地の国々とも毎日お金をやりとりしているはずではないのか……。
今思い出すと若干怒りを覚えるが、当時は半ばパニックで怒っている暇はなかった。
その日のうちになんとか送金せねばならぬ。冷や汗びっしょりで顔面は蒼白。
窓口に戻ると行員が、「他行なら可能かもしれない」と言う。それであの銀行を思い出した。コーポレートカラーがミドリのメガバンクである。初めてアルバイトをした時に給料をもらうために作った口座だ。この際ミドリと呼ぶ。スマホで調べると有楽町駅前にミドリの支店がある。行くしかない。銀行は3時で閉まる。すでに昼過ぎだった。
念のために電話をかけて確認すると、ハンガリーへの送金可能とのことである。神様! 目の前の行員に、ハンガリーへ送金するために預けてあったお金を直ちにミドリに全て振り込むよう依頼した。
書類を書く手が震える。手汗もやばい。顔汗が目に入る。間に合うのか。
振込み作業が終わると急いで移動した。八丁堀から有楽町へ。猛暑の中東京のど真ん中を走る。この歳で何やってんだ私は。
息絶え絶えにミドリに飛び込んだ。ミドリの行員はミドリ色のエプロンをつけていた。今もそうなのだろうか。彼女たちは汗臭い私を笑顔で迎えてくれた。
事情を説明すると、振込用紙を持ってきてくれた。2組あった。大家用と、学校用である。書類も律儀にミドリ色があしらわれていた。
まずは期限が迫っている大家さんから行きましょう、ということで書類を一緒に作ってくれた。国際送金にはSWIFTコードという世界中の各銀行が持つ固有のコードが必要で、自分でもあらかじめ調べて控えてあったが念の為に再確認をしてくれた。
14時50分くらいに双方への送金作業が完了した。本当にギリギリだ。泣きたくなるほどホッとした。いや半泣きだったかもしれない。ミドリのエプロンの彼女たちが女神に見えた。
この時の書類の控えは今でも保管している。あの時の汗と焦りと感謝は忘れない。
私は決めた。ミドリに一生ついていくことを。
留学を終えた私は帰国後新しい会社に入って早速ミドリを給料振込口座に指定した。最近現れたイタチだかカワウソだかよくわからないマスコットキャラクターが描かれた新しいカードを手に入れた。デビットカード機能付き。クレジットカードもミドリ系列のものを新しく作った。私が稼ぐお金はすべてミドリを経由して方々へ流れていく。少しは貢献できているだろうか。カードを使うたび、ミドリのエプロンの女神たちを思い出す。
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